台湾の言葉・日本語教育と歴史

kiki_kuro2010-02-19

台湾の言葉・日本語教育

3、400年前、中国の福建省から移ってきた台湾人。中華民国として標準語をどの言葉にするか。その当時、役員の言葉として使用されていた「北京語」と、貿易で使われていた「広東語」。どちらにするか話し合われた結果、「北京語」に統一。

明治28年〜昭和20年まで50年間、日本は台湾を占拠していた。明治27年日清戦争がきっかけだった。占拠していた期間、日本は台湾において日本語教育をしていく。国語として日本語の教育が始まったのだ。当時、台湾には共通語がなく、部族ごとに違う言語を使っていた。そのため、日本語が定着しやすかった。
今回知り合ったガイドさんは、当時、小学生だった。小学校で日本語教育を受けたので、現在も日本語がペラペラだった。


台湾(台湾省/中華民国)の歴史

1896年10月14日:台湾総督に陸軍中将乃木希典が就任。
1897年6月28日:日清戦争で日本領となった台湾の高山「玉山」を「新高山」に改名。
1897年10月21日:台湾総督府官制が公布される。
1913年12月20日:台湾縦貫鉄道が完成。
1915年7月6日:台南タパニーで抗日武装蜂起(903人に死刑判決が出され132人が処刑される:西来庵事件)。
1931年1月16日:石塚英蔵・台湾総督が「霧社事件」で引責退任。
1937年12月14日:王克敏らを中心に中華民国臨時政府が北京に樹立される(日本軍北支那方面軍が指導)。
1944年1月11日:連合軍機が台湾を空襲。
1945年10月10日:国民党・共産党両派間で停戦に調印(双中協定)。
1949年12月7日:台北に「臨時首都」を遷都。
1950年:イギリスが中華人民共和国を承認(台湾の国民政府はイギリスと断交)。
1958年8月23日:中国人民解放軍中華民国支配下にある金門島に砲撃。第2次台湾海峡危機が始る(金門島砲撃事件)。
1971年10月25日:国連を脱退。
1975年4月5日:蔣介石総統死去。
1987年7月15日:戒厳令解除。
1988年1月13日:蒋経国総統死去。李登輝副総統、総統に就任(台湾出身では初めてトップに)。
1990年3月21日:李登輝、第8代総統に当選。
1991年11月15日:列車同士の正面衝突、日本人4人を含む33人死亡。
1994年9月12日:アジア・オリンピック評議会(OCA)が、李登輝台湾総統の広島アジア大会招待を取り消す。
1996年3月23日:李登輝、第9代総統に当選。
1999年7月9日:中華民国李登輝総統が、「中台二国論」を唱える。
1999年9月21日:台湾中部大地震(M7.7)、死者・行方不明4800人。
2000年3月18日:陳水扁民進党)、第10代総統に当選。
2004年3月20日陳水扁第11代総統に就任。

台湾(台湾省中華民国)7keyより引用
http://www.7key.jp/data/country/e_asia/twn.html

乃木希典が台湾の総督に就任していたとは知らなかった。今、TVでも放映されている司馬遼太郎原作「坂の上の雲」でも登場する乃木希典。千代田線の乃木坂駅、乃木坂という地名も、この乃木希典から付けられたものとか。確か、近くに乃木夫妻が自刃した自宅があったと思う。また、乃木希典日露戦争でも活躍した英雄と呼ぶものもあれば反対に「坂の上の雲」で描かれたように評価を低くみるものもいる。台湾の総督に就任したものの、統治に失敗。2年後には総督を辞職した。

そして、今回、旅をして感じた蔣介石へのイメージ。歴史を知らなすぎる自分。反省。
実は、年配の台湾人のガイドさんが蔣介石のことを話した時、「彼は台湾人を何万人も虐殺しました。二・二八事件といいます」とマイナスなことを話していた。そもそも蔣介石って何をした人だったんだろ。


台湾と蔣介石

台湾

戒厳令時代には、中華民国の指導者、そして「中国4000年の道徳の体現者」として尊敬の対象とされ、蔣介石の銅像中華民国のあちこちにあった。さらに台湾の学校には孫文と蔣介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蔣介石にかかわるものが必ずある。さらに蔣介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖を真似たものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。

実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品[8]、巨額の金銀やドル紙幣、料理人を含めた優秀な人材を運び込んだ。このことが後に中華人民共和国における文化大革命時の美術品の組織的破壊から守ることとなった上、インフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。また、戦後の台湾島一帯は、冷戦下においてアメリカと強い関係を持つ蔣介石が統治したから、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。

しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蔣介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、蔣介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止[9]したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蔣介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蔣経国などと比べると本省人の間では評価が低い。

蔣介石は、息子の蔣経国への中華民国の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蔣経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの台湾本土化政策を推進したのである。

戴国莩は「(蔣介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東周恩来を信じられたが、蔣介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。

引用:wikipedia


蔣介石は台湾では蔣中正と書くらしい。もともと台北にあった国際空港の名前はこの蔣介石からとって中正国際空港と名付けられていた。しかし、数年前、台湾桃園国際空港と名前を変えた、とガイドさんが教えてくれた。しかし、色々な場所でまだ蔣介石(蔣中正)の像や名前からとった施設など目にすることが多かった。
二・二八事件について気になったので帰国後、検索。日本人も関係している事件であることにまた驚く。

二・二八事件とは

二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人との大規模な抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。

1945年に日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蔣介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継いだ。当初、台湾の「祖国復帰」を喜び、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望。当時の台湾人たちは「犬去りて、豚来たる」(犬(日本人)は五月蠅くとも役に立つが、豚(国民党)はただ貪り食うのみ)と揶揄した。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた女性(林江邁40歳、2人子持ちの寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名および警官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収したのである。

戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩等は全て中華民国によって専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に発砲、まったく無関係な台湾人(陳文渓)を射殺し、逃亡した。

この事件をきっかけに、中華民国への怒りが遂に爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。 この後、国府軍は、台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を行っている。

しかし、台湾側もこれに反発し、国民政府関連の諸施設への大規模な抗議行動を展開した。日本語や台湾語で話しかけ、答えられぬ者を外省人として暴行する事件も起こっている。本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行った。

劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、在台湾行政長官兼警備総司令・陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。

蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍支配下に収まるのである。

この事件によって、約28,000人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されてきた。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。

この事件については、長らく公に発言することはタブーとなっていた。しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。国民党政府が多くの台湾人を登用入党させたため、台湾人は党および政府の権力を漸進的に掌握してきたのである。特に、1988年に李登輝本省人として初の総統に就任して以降は、本格的な民主化時代がはじまる。

1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。これを皮切りに、事件当時の証言や告発をする動きもみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式にも再評価されるに至るものの、本省人で、自らも暴動に関係していた李登輝が謝罪するという皮肉な事態が起きている。

なお、二・二八事件については、当時台湾共産党中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったとの説もある。

引用:wikipedia

二・二八事件を描いた映画のロケ地「九份」

昔からなぜか呼ばれているように感じて、今回、友達と一緒に訪れた九份。映画のロケ地であったことは知っていた。しかし、二・二八事件を描いた映画だとは知らなかった。この映画は一度、見てみなくては!と帰国後思った。またこれは訪台(九份)のきっかけではないのだが、映画「千と千尋の神隠し」のモデルになった町としても有名である。九份の街中は日本人観光客が多く、宮崎監督がここでお茶した有名なお茶屋さんがあった。また、観光地価格かと思いきや、台北よりも物価が安いように感じた。


今回、台湾を旅行して

今回この旅に出て、このガイドさんに会えたことに感謝している。知らなかった台湾の顔を知ることができた。軽い気持ちで旅するのも楽しいけど、また違った一面を見られて、これも楽しかった。学校の校長先生も務めた、日本語ペラペラのガイドさんにまた会いたい、そう思った。ありがとー!●さん!